さる場所で

靖国神社は日本的ではない」的意見を発見。それはどうなのか、という問題提起。
これは正しいと思う。鳥居、灯篭、大村益次郎などなど、あらゆるものが巨大であり、ほかいろいろな意味で日本文化とは異質な部分が多いんですね。はてそれは何故なのか。
これは近代における世界の大変革に起因するのではないでしょうか。言い換えれば「西洋的なものがグローバルになった余波」ということ。どういうことか。明治維新以前、日本には「国家」という概念がなかったということ。簡単に言えば「日本人」ではなくて「長州人」ということ。「国民国家」っていうんだっけな、要するに江戸時代までは国家のために戦う兵士、軍隊というものは存在しなかった。そりゃするはずが無い。対外戦争なんてほとんどなかったわけだから。
しかし時代が変わった。国家がまとまって世界の中で生き残るための競争をしなければならない時代になった。そのために「国家のための兵士」が必要になった。さて問題だ、その兵士の死に対して国がどう責任をとるのか。それが戦死者のための鎮魂施設、蘘國神社となるわけでしょう。国家によってその死を価値付けられ、国家からの感謝をうける。(それが西村議員の「蘘國を参拝しないものは政治家の資格が無い」という言葉の意味なのではないでしょうか)これが、それまでの日本の神道文化において見られなかった異質な部分なのでしょう。そして、この価値観を受け入れられるか否かが、いわゆる「靖国問題」の本質なのでしょう。
ようするに、「国が個人の命の価値付けなんて許せない」と思う人は「宗教分離」「A級戦犯」などを根拠に靖国に反対する。また、「国家」とか「精神」とかそういったものに抵抗感の無い人が、上の価値観に同調できる。つきつめればそういうことじゃないのかな。
当然、私の言うことなんて間違っている可能性のほうが高いわけだし、全てがこれに当てはまるなんて思ってはいませんがね。とりあえず、ふじたかここに記す、なんて。まあ、まずは蘘國神社なるものをその目で見てください。そこには「なにか」を感じさせる「なにか」がありますから。きっと。